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雲巌寺第61代住職に聴く!より良い社会の育み

山村:さて、今回の対談の舞台は大田原市にある臨済宗妙心寺派の名刹(めいさつ)雲巌寺(うんがんじ)です。栃木県のデスティネーションキャンペーンのCMでご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、ここは僧侶が厳しい修業を積む道場で、永平寺といった寺院と並んで禅宗の日本4大道場の一つと呼ばれています。今回はこの雲巌寺の第61代住職である原宗明老大師にお話を伺ってきました。お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。

原:どういたしまして。

山村:まず、やはりご老師の出家をされたその経緯というか、きっかけというかについてぜひお聞きできればと思うんですけれども。

原:正直に言うと一番のもとでそれで全てなんだけれどもね(笑)。私は神奈川県の川崎の生まれですから、生まれの川崎の真ん中辺です。最寄りの駅は武蔵新城という所で、そこでは普通に小中、それから高校が県立多摩高というのがこれは私らで5回生でしたから、私らの時はまだ新しい学校だったんですけれども、でも県が非常に力を入れていまして、「南の湘南、東の多摩か」というこんな。実際はなかなかそうはいかないけれども(笑)。それだけやっぱり県が力を入れていたと、こういうことです。

 やってみると湘南高校というのは、それは今でもおそらく神奈川県随一であるはずだけれども、なぜ随一かというとだいたい元が違うんだ。元というのは湘南高校は、あの辺は土地柄がいわゆる簡単に言うと裕福な人がみんな住んでいる所とこういうことです。会社の経営者とかそういう人が集まっている場所ですから当然親だって教育レベルは高いし、経済的にはたっぷりしているし、そういう所でいい学校ができなきゃおかしいの。いい生徒が育たなきゃ。それに対して川崎というのは、逆に言うと職工の町だったんだ。今は職工なんて言わないけれどもね。いわゆるこっちの栃木、群馬辺りから次男、三男が働きに出ていって、それで住み着いたとこういう所でしたから。向こうから言わせれば「あそこは職工の所だ」なんて馬鹿にされるんですよ。言われるのはそんな具合だったけどね。大学は、その頃は本当にこんな生き方をしたいとかそういうのはまだ定まっておりませんので、何となく私は文科系より理科系のほうが得意というかそうだったものですから。

山村:ご著書で見たら東海大学の電気ですよね。

原:そうですね。そこを卒業して電機会社に2年半余り。電機関係。100人足らずの中小企業ですけれども、そこに勤めまして。2年余りでした。目的はそこで一生を過ごそうとか一生をそういう生き方をするのでという考えがあったんじゃなくして、取りあえず社会を知りたい、世間を知りたい。世間を知るには取りあえずじゃないけれども、まず社会に出なきゃ世間なんか知りようがないと。1年やって、1年目は全て新しい経験というか、新しいことで2年目になると去年やったおさらいみたいになってくるわけですから、2年やってそこで24でしょう? 改めてそろそろ一生の自分の生き方、方向、これをもう決める時期に来ている。どうしようかと。さてどんな生き方をしようかと改めて自分を振り返って問いただして、自分を整理してといいましょうか、そうしたらやっぱり、いいくらかげんな生き方はしたくない。というよりできないといいましょうか。

 それこそ小学校5~6年頃から私の一番楽しみというか好きというか、これは本を読むということ、ものを考えることだったんだ。その方向で中学、高校とずっとやってきて。高校でも学校の勉強だからおろそかにしていいというわけじゃない。学校の勉強は学校の大事なことなんだけれども、もう一つ大事なことは今言った、そうやって考えていって自分自身を純粋にすることなんだ。これは中学校の3年ぐらいの時にもうそういう方向が。だから小学校の頃から自分というものをずっと考えて見詰めてこうやっていって、中学3年ぐらいになった時にはもうだいたい自分の中に芯というか何というか形になってもう現れちゃって、できていた。だけど、その頃はまだ純粋という言葉じゃなくて素朴という言葉だった。人間として、要は素朴。人として素朴。もうここに尽きるというか、一切突き詰めていきゃここに行くと。ここから出てくるものが逆に今度は本当に人を動かすことになるというふうに。それが高校になった時に純粋という言葉になりました。ということにもう1つ昇華されたということ。高校の時の自分の生き方といいましょうか、やり方は、学校の勉強は学校の勉強でこれは大事ですから、これはおろそかにいかんけれども、だけど、もう一つはいかに自分を純化するか、純粋にするか。これが私にとっての一番の命題だった。

山村:それは純化するとか、純粋であっても素朴であっても、そういうことに対する感性というか感じ方というのかというのはやっぱりお父さんやお母さんの影響だったんですか。

原:これはおそらく遺伝が基にあってのことだったと思います。おふくろが非常に今言った感性の豊かな人でした。豊かというか、非常にこれは細やかな人だった。だから、そこの性質は私はおふくろからもらったと思います。今度はおやじのほうは非常に真っすぐな人だった。純粋というか、農家ですから純朴とでもいいましょうか。曲がったことは絶対に嫌いだし、しないし。いわゆる素直にずっと。この両方をちょっと性質を頂いたように思います。

 あとはやっぱり農家という所に生まれ育ったというこれが、私が人間形成をしていくのに大きなものだと思います。親がいわゆる、その頃は勤め人とこういう言い方をしたんだけれども、サラリーマンというのと農家でやっぱり違うんだ。そういう所で生まれ育って、親の仕事ぶりというか、もちろんお米を作って、二毛作で麦も作っていましたけれども、あとは隣が東京ですからいわゆる市場がありますから野菜を作る農家なんだ。だから一年中野菜を取っ換え引っ換え作っているわけ。だからそういう所でそういうそれこそ春のうららそのものだ。そういう環境で育ったということ。あとは土地の土の香りとでもいいましょうかね。そういう環境です。これがだからもし私が東京の真ん中でアスファルトしかないような所で生まれ育ったらこんな人間は絶対できないと思う。

山村:なるほど、そうだよね。ご老師が書かれた『明るいほうへ』というご著書を拝見しまして、それをずっと読ませていただいたんですけれども、今お話を伺っていてやっぱりお父さんの真っすぐさとかお母さんの細やかさとか、それから農業を通して働くとか衣食住に関係することとか、ご著書の中に散りばめられているものがすっと今それが入ってきました。

原:なるほど。いわゆる自然そのものというか、自然とぴったり一枚になっていって自然そのもので人が生きていくというのは最も自然というか、本来人はそうやって生きてきたわけですから、それが時代の変遷で人が集約されて都会というか街ができてということになって、それに合わせた生き方もできてきたということだけれども、本来はやっぱり大地に即して土を耕して、これは人の素直な、素直って最も初めのところですからね。だから逆にそういうふうにして生まれ育つとやっぱり素直なというか純粋な方向の人間ができやすいとこういうことだ。だから都会で生まれ育ったらもう少しこすっからくなっている。

山村:そうかもしれないですね。

原:いや、そういうことなの。好むと好まざるとに関わらず擦れるということが必要になってくるわけですよ。だけど今言った田んぼ、畑で春のうららで育っていれば全く擦れる必要がないんだ。ということでこんなふうにできたとこういうこと。

山村:会社にお勤めになって2年した頃に何かがあって。

原:1年、2年して、もう一度本当に自分の生き方をもう決めにゃいかんといって改めてした時に「一生会社勤め。冗談じゃない。わしはそんな生き方をしてたまるかい」とこういうことに。いや、会社勤めに行かなくていいんじゃないんですよ。あくまで私の話ですよ。間違えないでください。私にとってはですよ。そうするとやっぱり、もうそれこそ毎日じゃないけれども真剣勝負の生き方をしたかった。表現すると、この辺を針ででもいいからちょっと突いたら赤い鮮血がぴっと飛び出ると、吹き出すと、そんな生き方をしたいとこういうことです。

 そんな方向で生きたい。どうしたらいいか。どういう方向、どんな形があるかとやっていった時に大学の化学のオカアキラという先生でしたけれども、文化祭の文集みたいなものに書いているのがあって、それを読んで「あ、こんな先生がいるんだ」というのが分かったものですから、ちょっと私とぴったりしたものですから卒業した日に「きょう卒業した何の誰兵衛ですけれども、実は先生の本を読んでいわゆる感激したじゃないけれども、できたら聞いていただきたいことがある。伺ってもよろしいですか」と言ったら「どうぞ、いらっしゃい」ということで私の内面のものを全部吐き出してというか、それをきっちり受け取ってくれたわけですよ。帰りに「この本を読んでごらんなさい」と渡されたものがロマン・ロラン。

 全集にも入っていますけれどもロマン・ロランが今から、日本でいうと江戸の終わりから明治の初めの頃でラーマクリシュナとその今度は弟子がヴィヴェーカーナンダ、この2人の伝記をロマン・ロランが書いているんです。この兄弟弟子からお話を聞いて伝記を書いているわけなんですけれども、それを読んで「ん? 何だ。この人は私と全く一緒じゃないかな」となった。そのヴィヴェーカーナンダ、弟子のほうです。言っていることというか一言の言葉が出てきていまして、それが「敗北の生を生きるよりは戦場に死ぬほうがましだ」という言葉を吐いているんですよ。だから、その言葉が私とぴったり一つになったの。一つというか「何だ、私が思っていることを言っている人がいて、それがすでに生きた人がいる」とこういうわけです。そう遠くない100年ほど前にすでに私の思いとそれ自体を生きた人がいる。インドの歴史でいうとインド独立の精神的バックボーンになったとこういう人です。だからこの人はインドという国民を大いに自信付けたといいましょうか。

 当時インドはイギリスの植民地だったの。だから、いいというか肯定すべきものは全部イギリスのものだ。西洋のもの。インド古来というかインドのものは駄目だとこうなっていた。そこにあって「いや、そうじゃない」と。確かに物質や経済的にはイギリス、こっちのほうが勝っているというか、なんだけれども精神性、インドの2,000年~3,000年とずっと来ている精神性、これはもう世界に冠たるものがあるんだということを大いにこうして国民を大いに奮い立てたとこういうことです。そういう働きをしたの。

 この2人にぶつかって、それで自分の理想といいましょうか、それを、人間としての理想を私はその2人からもらったの。ということで考えてたどり着いたのが出家ということでした。出家というのがそれに一番適したといいましょうか。出家という立ち位置は自分のほうに用いるエネルギーは必要最小限にしておいて、一切というかそれ以外のできる限り自分のエネルギーを向こう側、相手に用いるという生き方ですから。

だから、何も家族が嫌いだとかご婦人が嫌いだとかそういうことではなくして、ただ私の目的は相手をいかにこうするか、そういう生き方をしたいということなものですから、それには家族とかご婦人はちょっと脇の隣の蔵に入れて鍵かけて、しまいましょうなの。鍵かけたの。これが出家だ。

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